ホントにあるの??未発見の埋蔵金伝説!!日本国内に伝説として語り継がれている「埋蔵金」伝説を読み解き幾多の人々が探し求めてきた【埋蔵金】しかし、未だ発見されていません。夢物語とされていますが埋蔵金はどこかで眠っているかもしれません。今回はそんな伝説として語り継がれている「埋蔵金伝説」を調査しました。早速みていきましょう!
埋蔵金とは?
埋蔵金とは何処かに隠され埋められたりされ行方がわからなくなっている財宝の事です。
埋蔵金を発見したら?
ここで気になるのが、もしも…埋蔵金を発見した場合はどうなるのか?その疑問についてですが、もしも、埋蔵金を発見したら…
地中に埋められた埋蔵金の場合
- もしも、運良く財宝を堀当てた場合は、「大蔵物の発見」(民法第241条)に基づき財宝は遺失物扱いになります。そして、警察に届けなければなりません。6ヵ月待ち所有者が名乗り出なければ、財宝を発見した土地の所有者と折半になります。自分の土地ならば…
全て貴方のものです!!
海底に眠る埋蔵金の場合
- 財宝が海底の場合は警察に届けるのではなく沿岸部の各市町村になります。そして、財宝が剥き出しの状態ならば、6ヵ月間、船内に残っている状態ならば1年間の期間、所有者が名乗り出なければ…
全て貴方のものです!!
日本国内には戦後だけでも約50件程の埋蔵金の発見報告があります。
日本に眠る未発見の埋蔵金の数と総額は?
日本で未だ発見されていないとされる埋蔵金の数は約数百件存在すると云われています。そして、その埋蔵金の総額は諸説ありますが、1000兆円を超えると云われています。
日本の埋蔵金伝説
日本国内で存在するのではないかと言われている埋蔵金の伝説を紹介していきます。
帰雲城の埋蔵金
日本3大埋蔵金の1つです。帰雲城、天正13年(1585)11月29日深夜の出来事です。突如として大地震が発生し帰雲城を襲います。大地震により帰雲城は一夜にして壊滅してしまいます。
帰雲城は当時、徳川家康に狙われていました。その為、帰雲城の財宝をどこかに隠したとされています。この帰雲城の財宝はかつて徳川家康をはじめ大岡越前守も探し求め帰雲城跡地を掘っています。この伝説は諸説あり財宝を求め発掘する人が後を絶たないと言われています。
金光寺には伝説の財宝の在り処が隠された謎の3首の和歌があり、この謎を解ければ財宝のありかがわかるといわれています。しかし、未だに城跡も発見されず埋蔵金伝説として語り継がれています。
佐々成政の財宝
佐々成政とは織田信長の家臣で越中冨山で五十四万石を領していた戦国武将の一人です。時は天正9年、佐々成政は軍資金確保の為、金鉱開発で発見された金鉱で莫大な黄金を手中に収める事に成功します。
しかし、本能寺の変で主を失った後、秀吉と敵対します。敵対した秀吉と対抗する為、家康と同盟を結ぼうと考え往復20日かけて真冬のアルプス越えて家康の元へ行きます。
これは「佐良越え」サラサラ越えともザラ峠越えとも言われ現在まで伝わっています。しかし、交渉は決裂し失敗に終わります。
翌年の天正13年に佐々成政の城は秀吉に攻められ落城します。落城寸前に城中から秘かに小判百万両を持ち出し立山山中に隠したという伝説が伝えられています。その黄金には笹の葉模様が押されていて49個の壺につめて埋めたされています。
「朝日さす夕日かがやく 鍬崎に七つむすび七むすび 黄金いっぱい光りかがやく」
という里謡が伝えられています。これは財宝のありかを示す暗号といわれています。 「七つむすび 七むすび」
というところは7×7=49で49個の黄金の壺を差し示すとされています。
「鍬崎」「さらさら越え」
これは立山連峰の山の一つだといわれています。この伝説は佐々成政の埋蔵金伝説として
語り継がれています。そして、未だ未発見の埋蔵金伝説です。
大久保長安の埋蔵金
大久保長安は経理の才があり、猿楽師から取り立てられています。長安は、武田氏が滅亡した後、徳川家康によって見出され1591年には八王子の地に8千石を与えられています。
当時、佐渡金山、石見銀山などの奉行・代官を兼任するほど家康に信任されていました。当時は金山などで採掘された幕府に収める金銀の量は幕府と自分とで取り分は折半であったとされています。
長安はこれにより莫大な資産を蓄えその富は大名や将軍さえ凌ぐ
といわれていました。しかし、長安の死後
に数々の不正があった事が発覚します。長安の屋敷からは黄金70万両をはじめとする莫大な遺産が発見されます。この莫大か遺産を目にした家康は激怒し、長安の遺体を掘り起こし打ち首にしたばかりでなく、長安の一族30余名をも打ち首にする程でした。
この一連の残虐な仕打ちの理由は長安が謀反をおこす計画があったからだといわれています。長安はこのことを予見していたとされ長安は莫大な財産を何処かに隠していたといわれています。
戦前の有名な予言者である出口王仁三郎は「箱根に埋蔵金があるのは確かだが関係者の執念がついていて時期がこなければ発見できない」と語っています。この埋蔵金は未だ発見されていませんが現在最も信憑性がある
埋蔵金伝説の1つとされています。
徳川埋蔵金
日本3大埋蔵金の1つで最も有名な埋蔵金 伝説です。時は1868年4月に江戸城が
無血開城となった時、当時財政難に喘いでいた明治新政府は幕府御用金を資金源とする事で財政難を脱却できると期待していました。ところが、城内の金蔵は空であった。幕府が隠匿したとされる埋蔵金伝説、これが俗にいう徳川埋蔵金です。この埋蔵金伝説には埋蔵金のありかを示す暗号があるとされています。その暗号は童謡に隠されていると言われています。その童謡は…
「かごめかごめ」
です。「かごめかごめ」の歌詞は
かごめかごめ
かごのなかのとりは
いついつでやる
よあけのばんに
つるとかめがすべった
うしろのしょうめんだーれ
となっています。「かごめかごめ」の「かご」とは六芒星の形をしています。そして、「籠の中の鳥」は「籠の中の鳥居」と解釈できます。実は、徳川家が建てた神社・仏閣を地図上で結ぶと「かご」である六芒星が浮かび上がります。その六芒星の中心が「日光東照宮」です。
よあけのばんに
つるとかめがすべった
「日光東照宮」には「鶴」「亀」の像があります。この2つの像は朝日の光が作る影を指すと言われています。その影の示す先には「見ざる聞かざる言わざる」の彫刻があります。この「見ざる聞かざる言わざる」の猿が見ている方向には「眠り猫」の門があります。その先が徳川家のお墓となっています。
うしろのしょうめんだーれ
これは徳川家のお墓の後ろの祠を指すと云われており、そこには六芒星が刻まれています。この六芒星は何故か上の部分が欠けており真下を指しているような形になります。そこに徳川家の埋蔵金が眠ると云われています。
豊臣埋蔵金
豊臣秀吉が多田銀銅山に隠したとされる埋蔵金伝説です。多田銀銅山の埋蔵金を示す文献は巻物が4つあり絵図は8つあります。350年の時を経てこれら巻物4つと地図8つの文献が発見されました。しかし、旧坑道は迷路のように入り組んでおり埋蔵金は未だ発見されていません。
未発見の埋蔵金伝説!ホントにあるの!?伝説の財宝とは?まとめ
いかかでしたか?未発見の埋蔵金伝説。夢のあるお話ですね。もし発見すれば、一夜にして億万長者です!埋蔵金伝説は歴史のロマンと共に埋もれ、最大の謎として今後も語り継がれていくのでしょう。いつか、発見される日が来るかもしれませんね。