激動の時代を駆け抜けた英雄!幕末志士の愛刀伝説

侍といえば日本刀を想像します。そして、侍といえば幕末志士です。数多くの伝説や逸話が多く存在する幕末に活躍した最後の侍、近代日本の礎を築いた英雄達の愛刀についてを調べました。

日本刀とは?

古来から武器としての役割だけでなく、美しい姿から象徴的な意味を持ちあわせており、現代では美術品としても評価の高い物が数多く存在します。

日本刀に纏わる伝説!驚愕の名刀列伝!

志士

志士とは命を懸け民族国家の為に尽くすという非常に高い志を持った者の事です。「志士仁人は…(略)身を殺して以て仁をなすなり」が語源であり激動の時代を駆け抜けた幕末の志の高い人達の事を指します。

 

日本刀に纏わる伝説!驚愕の名刀列伝!

 

幕末志士 英雄たちの愛刀とは?

激動の幕末動乱をただひたすら正しき道を信じ命を懸けて駆け抜けた幕末の英雄達の愛刀を調べました。(諸説有)

坂本龍馬

1836年(天保6年)に土佐藩郷士の家に生まれます。脱藩した後、志士として幅広く活躍し、貿易会社と政治結社を兼ねた「亀山社中」を結成しました。1866年(慶応2年)「薩長同盟」締結、同年、寺田屋にて襲撃され妻の機転により逃げ延びる、翌年「海援隊」隊長就任、「船中八策」を考案します。1867年(慶応3年)京都河原町の近江屋で中岡慎太郎と共に襲撃され暗殺されてしまいますが最後まで愛刀「陸奥守吉行」を離さず最期を迎えます。

愛刀

陸奥守吉行

坂本龍馬が暗殺された後、龍馬の遺品は坂本家にて保管されていました。しかし、1913年(大正2年)に釧路大火で被災し龍馬の遺品が数多く失われてしまいました。その際、陸奥守吉行も変形して反りを失ってしまいました。その後、陸奥守吉行を研ぎ直し、1931年(昭和6年)恩賜京都博物館(京都国立博物館)へ寄贈されています。当時は反りがない点や刃紋の作風が異なる点から、陸奥守吉行については懐疑的な見方もありました。2016年、京都国立博物館所蔵されていた陸奥守吉行が科学的調査により、本物の陸奥守吉行であることが判明し、暗殺時に所持していたことも立証されています。

近藤勇

いわずと知れた新撰組局長です。近藤勇は農家の出でありながら将軍に接見出来る程出世した人物で、一夜にして逆賊となってしまった人物でもあります。新撰組は1863年に「浪士組」から始まり「壬生浪士組」そして、「新撰組」となりました。1864年の「池田屋事件」では20数名の志士が集結している中を、たった4人で斬り込みその名を京都中に轟かせました。その際、無傷で帰り、養父に宛てた手紙で、「下拙刀は虎徹故に哉、無事に御座候」と送っており、自分の刀が長曽祢虎徹だったので命が助かったと書いていました。「近藤勇」は倒幕派から恐れられ幕末の京都で血の雨を降らせ最後まで徳川幕府に忠誠を貫いた侍です。

愛刀

長曾祢虎徹

曽祢虎徹は、江戸時代の名刀工・長曽祢興里による作品です。江戸時代に流行った反りの浅い刀で、江戸時代の刀でありながら、古刀のような鉄の柔らかさを持っています。観賞用としての名刀は勿論の事、実際はかなり実戦用に向いた刀です。江戸時代の試し切り専門職「山田一門」が刀の切れ味を4段階に別けていましたが、本作品である名刀「長曽祢虎徹」は最も高い評価の「最上大業物」です。

土方歳三

1835年に10人兄弟の末っ子として生まれます。俳句を趣味としており現存する俳句は41句あります。1863年に「浪士組」「壬生浪士組」「新撰組」副長として局長である「近藤勇」を補佐しました。「新撰組」となり1864年の「近江屋事件」を経て「新撰組」の新撰組局中法度を作りました。鉄の結束の生みの親として、「鬼の副長」と呼ばれ鬼と恐れられていました。1868年に戊辰戦争が勃発し、1869年に戦死されます。しかし、その死は謎に包まれています。

愛刀

和泉守兼定

「和泉守兼定」は近江屋事件後に会津藩主・松平容保から下賜されたと伝えられています。数ある土方歳三の愛刀として最も有名な刀で知られています。会津藩の刀工である会津11代和泉守兼定によるものと云われています。「和泉守兼定」は「土方歳三資料館」にて、毎年、土方歳三の命日に合わせ展示されます。

西郷隆盛

1827年(文政10年)に生まれます。下級武士の出で貧しい暮らしではありましたが、しっかりとした教育を受けていました。大久保利通と共に学んだと云われています。1854年に島津斉彬の庭方役に昇進し、1864年には禁門の変で薩摩軍の指導者となり、1866年に薩長同盟を締結します。1868年に江戸無血開城に成功、1871年に新政府の役職に就き廃藩置県等を提案、しかし、1873年に意見の相違から退官、1877年には一転逆賊となり西南戦争にて戦死。1889年に大赦により征三位を贈られます。幕末の三傑に数えられる英雄として後世、語り継がれています。

愛刀

伊勢千子村正

「村正」という刀は、伊勢国桑名で活躍した刀匠の作品です。初代「村正」は「妖刀村正」として知られています。その由縁は時の権力者、徳川家に不幸をもたらす刀と云われ徳川家康の祖父や息子が「村正」により命を落としており、家康本人も負傷しています。以降、徳川家に仇なす妖刀として伝説となります。奇しくも「西郷隆盛」も到幕派でした。しかし、「西郷隆盛」が持つ「伊勢千子村正」は入手困難であった為、贋作であるという説もあります。

岡田以蔵

武市半平太率いる土佐勤王党に加盟し数多くの天誅暗殺を繰り返していました。幕末の四大人斬りの1人で「人斬り以蔵」の異名を持っています。坂本龍馬とも面識があり幼馴染でもありました。坂本龍馬の推薦で勝海舟の護衛を務めたました。幕末きっての剣豪でもあります。3人の刺客に襲われるも1人を切り伏せ一喝すると残りの2人は逃亡しました。政権失脚後武市半平太が捕らわれると脱藩し酒に溺れる生活を送り最後は捕らわれ拷問の末全てを自白し極刑をもって28年の生涯を閉じます。坂本龍馬は一報を知ると大泣きしたと云われています。岡田以蔵、辞世の句「君のため尽くす心は水の泡消えにし後ぞ澄み渡るべき

愛刀

備前忠広

「備前忠広」の入手先は諸説あり、坂本龍馬が贈った物、坂本龍馬の兄が贈った物です。「備前忠広」は天誅を繰り返し為、本間精一郎暗殺の際に破損したと云われています。その後「備前忠広」は一時期、「遊就館」にて展示されていましたが、現在は行方が分からなくなっているようです。

田中新兵衛

土佐勤王党の武市半平太と義兄弟の契りを交わします。その後は天誅を繰り返し、文久3年に、姉小路公知が暗殺された事件が起こり現場に残されていた刀が田中新兵衛の愛刀であった事や、薩摩下駄も残されていた事、田中新兵衛が負った傷の位置が生き残りの証言と一致した等から、捕縛されてしまいます。尋問するも沈黙を貫き隙を見て脇差しを奪い自決しました。天誅を初めとし多数の暗殺を行ったとされ「人斬り新兵衛」の異名を持ち幕末四大人斬りの1人です。

愛刀

薩州鍛冶奥和泉守忠重

銘「薩州鍛冶奥和泉守忠重」長二尺三寸。鉄製柄で表に「鎮守」、裏に「英」の彫文字が刻まれており、切羽やはばきのメッキが剥げていたと云われ相当使い込んでいたと想定さらます。幕末の四大人斬りの一人田中新兵衛の愛刀です。

河上彦斎

150㎝と小柄な体格で熊本肥後藩で尊皇攘夷派です。明治維新後は有終館を設立し自らも教鞭に立っていました。しかし、藩から突然の解体を命じられ解散します。暗殺事件に関与していたと嫌疑をかけられ投獄されてしまいます。明治4年に斬首されてしまいます。暗殺事件に関与していた可能性は低く、当時、新政府の方針に従わなかった為、危険な存在とされ処刑された可能性が高いと云われています。幕末四大人斬りの1人で「るろうに剣心」の緋村剣心のモデルとなっています。片膝が地面に着く程の低い位置からの逆袈裟斬りを得意とした片手抜刀の達人です。

愛刀

肥後国同田貫宗廣

肥後藩に同田貫一門として知られてる刀匠の刀で、強度があり実戦向きとされています。胴を貫いて切り裂いた逸話を持ち明治天皇の前で天覧兜割りで切り口3寸5分、深さ5分斬り込みを入れた逸話も残っています。時代劇「子連れ狼」の主人公である拝一刀の愛刀もまた、同田貫でした。現在ては観賞用としても人気があります。

中村半次郎

桐野利秋通称を半次郎。幼小期は貧しく家計を助けていました。その為、儒教などの知識が若干乏しく、その点は西郷隆盛も惜しんでいました。剣術は相当な腕前で斬るいえば必ず斬るという性格の持ち主であったと云われています。フランスの香水をつけ金の懐中時計等、当時は珍しく高価な物を纏っており身なりには気を使っていた事がわかります。明治維新後に陸軍少将となるが辞職します。西南戦争では西郷隆盛と共に戦い西郷軍の総指揮をとっていましたが、鹿児島城山にて戦死。幕末の四大人斬りの1人として知られています。

愛刀

無銘 伝西蓮

古くは島津義弘も愛用していた刀で、鎌倉末期蒙古襲来に備え博多談義所に属して鍛治していました。直刃と反りが浅いのも特徴の1つです。

綾小路定利

京都の綾小路に住んでいた為、この名が着いたと云われています。絢爛豪華な施しがなされた綾小路定利を愛刀としていたという説があります。

木戸孝允(桂小五郎)

吉田松陰に師事しその後は維新の三傑の1人として数えられ、到幕の志士として活躍します。幾度となく命を狙われていましたが池田屋事件、禁門の変などでも生き延びています。逃げの小五郎とまで言われていました。しかし、剣術の腕前は一流で神道無念流の塾頭まで務めた程で、近藤勇に「恐ろしい以上、手も足も出なかったのが桂小五郎だ」と言わしめた程の実力の持ち主です。明治維新後も新政府の中枢を担います。西南戦争勃発後、病の為、死去。その際、西郷もいい加減にしないかと譫言のように呟き新政府と西郷の行く末を案じていたと云われています。

愛刀

備前長船清光

鎌倉時代から幕末まで続いた、備前国邑久郡長船の刀工の刀です。長船刀工が製作した刀は長船物と呼ばれ長船派には「長船四天王 」と呼ばれる名工が存在しその評価も高い事で知られています。

沖田総司

近藤勇と共に浪士組、壬生浪士組、新撰組で活躍しました。天才的な剣術で新撰組1番隊組長に任命されています。三段突きを得意としており、一歩の踏み込みで放つ程のスピードを誇っていた逸話も存在します。新撰組隊士の中でも最強の呼び声が高い新撰組屈指の剣豪です。池田屋事件では近藤勇等4名で乗り込みますが、病の為、前線を離脱したと云われています。近藤勇の斬首を知ることなく2ヶ月後の1868年(慶応4年)に24歳の若さで病死。

愛刀

加州清光 大和守安定

加州清光は十二代続いたとされており、六代目の藤原清光の作品であると推定されます。藤原清光は非人小屋で仕事をすることになったことから乞食清光とも呼ばれるようになります。池田屋事件で折れてしまい修復不可能になり破棄された物と推測されます。

激動の時代を駆け抜けた英雄!幕末志士の愛刀伝説まとめ

いかがでしたか?幕末の動乱を駆け抜けた英雄の武士の魂である「日本刀」命を懸けて守り己が信じた道を突き進んでいった最後の侍。彼らが求めた日本国になっているのでしょうか?平和という言葉に甘えているような気がします。しかし、平和な時代だからこそ、何でもいいので己が信じる道を彼らのように貫き通したいものです。

 

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